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【第一三話 其の一 アメリカ合衆国四九番目の州で、巨大な鮭を釣る~病弱な少年の夢が成就した日~】

 暦が捲れ、二〇二一年が始まった。
 昨年は疫病が世界を揺るがした年だったが、新たな年も波乱の様相を呈している。年明けから私が注目していたのは、昨年末から続いていた世界の関心事、アメリカの大統領選挙の行方だった。
 自由の国、そして民主主義のお手本とされた、この国のボス選びは波乱の展開で幕を開け、揉めにもめた末に一応の決着がついた訳だが、どうにもスッキリしない。いまだに国民を二分して騒動が続いている。
 ここに至っても団結を妨げているものは何か?
 その理由は複雑に絡まり合っていて、簡単には解けない。
 選挙に不正があったという噂もあり、その訴状を受けた司法も闇に光を照らすことを避けたので、有耶無耶のまま当確が打たれてしまった。
 大手マスコミも偏向報道が多く、事実は藪の中。それが最悪の結果を呼ぶのは、想像に難くない。ワシントンDCに暴動が起こったのは、周知の事実だろう。
 思うに、これは単に二人の候補の対決ではなく、旧来の資本主義とグローバル主義に姿を変えた新たな社会主義の戦いでもある。形を変えたイデオロギー戦争の再燃が超大国で起こったならば、世界の混乱は必至といえよう。激動の時代が幕を開けたのかもしれない。
 
 と、暗い話はここまで。アメリカの話題から始まったので、今回はアラスカで鮭を釣った話をする。
   ◇   ◇   ◇
 アラスカは鮭や鱒を求める釣り師にとって特別なフィールド、謂わば聖地である。
 
 彼の地の釣り事情を知ったのは、今から半世紀近くも前になる。中学校に上がったばかりの頃だった。当時の私は病弱で、病院と縁が切れない少年だった。ちょっとしたことでも熱を出して寝込んでしまうので、学校も休みがちになる。身体が病んでいると、心も弱くなる。周りの健康な少年たちと自分を比べて、劣等感に苛まれることもしばしば。

 そんなある日、私の運命を変える出来事が起こる。学校の帰りに雨に当たって体調を崩し、床に臥せっていた私の枕元に母が一冊の文庫本を置いた。

「これ、買い物の途中に寄った本屋さんで見つけたの。あんた釣り好きでしょ。読んでみない?」
「え、なに、釣りの本?」
 カタカナで『フィッシュ・オン』というタイトルが記されたその本を受け取った私は、すぐさまページを捲った。
 私の眼に飛び込んだのは、見たこともない極北の景色や巨大な鮭の写真。夢や冒険といった言葉が陳腐(ちんぷ)に感じるほどの衝撃が脳を揺さぶった。その後は、病が蒸発したかの如く。何かに憑かれたように、その本を読み進めた。

 著者は、自らをベビィフェイスの中年と呼ぶ『開高健』。芥川賞を受賞後に臨時特派員として戦時下のベトナムで戦況を取材。帰国した後、数々の釣りの名著を残した小説家だ。
 かくして彼が記した『フィッシュ・オン』の世界は、私の人生のバイブルとなった。
 
 それから四〇年あまりの年月が過ぎ、病弱だった少年は無事に成長し、仕事に就き、家庭を持ち、子を育て、順風満帆とは言わないまでも人生の荒波を泳いできた。世の中は移ろい、自分も随分と変わったが、一つだけ少年の頃から持ち続けてきたものがある。それはアラスカへの憧れ。極北の川でキングサーモンを釣りたいという、想いは募るばかりだった。
   ◇   ◇   ◇
 強い願いは、運命を引き寄せるというが、それを実感したのは二〇一四年の夏。生来の釣り好きが高じて、釣りの仕事に関わるようになった私に、抱き続けた夢を叶える千載一遇のチャンスが到来した。構成を担当している釣り番組に、私と縁の深いルアーメーカーがスポンサー企業に加わり、そのプログラムの一環で、アラスカロケの企画が持ち上がったのだ。嬉しいことにアングラーは、私。それから順調に話は進み、その年の八月初旬にアラスカへ渡ることが決まった。
 
 渡米までの半年間、仕事の合間を縫ってタックルの調達やキングサーモンに対応するプロトスプーンの制作など、準備に邁進。初めての挑戦とあってその作業は膨大。出発直前まで苦労は続いたが、苦になるはずもなく、忙しくも幸せな時間が過ぎていった――。
                       
 新千歳空港―成田国際空港から渡米―シアトルを経由して、テッドスティーブン・アンカレッジ国際空港へ向かう飛行機の中。
〈なんだ、この眺めは……。北海道と似ているが、山も川もスケールが半端ない〉
 飛行機の丸い窓から覗く景色に、思わず息を飲んだ。眼下に広がるのは分厚い氷河を抱いた山脈、氷を張った湖、凍てついた幾筋の川。八月だとは思えない極寒の大地だ。そしてそれらは非日常の清潔な空気に満たされていて、神々しいまでの輝きを放っている。
 アラスカは一八六七年にロシア帝国からアメリカ合衆国が買収し、一九五九年に四九番目の州となった。カナダとは陸続き、海を隔ててロシアと隣接する極北の大地。総人口はおよそ七一万人あまりで、およそ半分ほどの人々が同州最大の都市、アンカレッジで生活している。
 故に内陸部は、州内第二の都市フェアバンクスを除くと、ほとんどが原生林に覆われた無人の荒野だ。この地で暮らすのは、自然を糧にする僅かな人間と動物、文明に背を向けたモノ好きくらい。つまり、この地に足を踏み入れる私を含めた釣り人も、モノ好きのカテゴリーに分類されるということになる。

 見た目には寒々とした光景だが、アラスカの凍てつく大地は生き物を育む揺り籠でもある。氷河は大地を潤す川の源であり、ミネラルを含んだ水を海へ注ぐ。海と内陸を結ぶ川は生命の道となり、数えきれないほどの鮭が産卵のために遡る。川に上った鮭の肉は、動物を養う貴重な食糧だ。そして動物の糞は植物の栄養であり、蛆が湧けば鮭の幼魚の餌となる。
 食うも食われるも生きるための必然、生態系は限りなく平等で、それを過分に欲する者は存在しない。本来は、人間も自然界の循環ループに従っていたはずなのに、今は、その恩恵を貪るだけの存在になり下がってしまった。まったくもって、嘆かわしい限り。

 おっと、話が脱線してしまった。私が求める魚は、アラスカの川を遡る鮭の最大種。体長一メートル半ばまで成長するキングサーモン。堂々たる体躯と圧倒的なパワーを誇る鮭の王様だ。ひとたび鈎に掛かれば、最後の瞬間まで激しく抵抗する川の暴君。この魚を釣ることは、欲張りな川釣り師を自称する私にとって最大の目標なのだ。
        *        *        *
 新千歳空港を飛び立ってから、およそ一九時間の長旅の末にアンカレッジ空港に到着。遂に憧れの地、アラスカの土を踏んだ。
「来ちゃったなぁ、トラ閣下」
 トラ閣下とは、この釣行に随行したルアーメーカーの社員。この旅の間、『フィッシュ・オン』に倣って、互いを『殿下』『閣下』と呼び合うことに決めていた。非日常を満喫するためのごっこ遊びという訳だ。
「ですねー、殿下。アンカレッジは思ったより暖かいすね」
「飛行機で見た景色から比べたらね。それとこの明るさは、びっくり。午後十一時を回っているのに、まだ夕方みたいだ」
 空港の前でスタッフと合流。白夜の陽光が映す長い影を引き連れながら街を探索し、宿にチェックインした――。

 あくる日の朝は、ホテルからほど近いレストランでブレックファーストを取る。
「殿下、ご機嫌は如何でしょうか? 今朝は何を召し上がられますか?」
 慇懃無礼な口調で、トラ閣下が尋ねる。ごっこ遊びは、なりきりが大事だ。
「そうだな、閣下。ベッドが堅かったので、腰が痛い。たまには庶民の食事を味わってみたいが、何かお勧めはあるかね?」
 できるだけ声のトーンを低くして、威厳を醸し出す。
「では、殿下。エッグベネディクトなど如何でしょう。この辺りの定番の朝食のようですが」
 エッグベネディクトとは、半分に割ったイングリッシュマフィンの上にローストしたハムやベーコンを乗せ、目玉焼きをトッピングした食べ物。店の客の多くが、このメニューを注文していた。
「ヘイ、ミス」赤い髪を後ろに束ねた若い女性店員に声を掛ける。
 くるりとこちらに向けた顔は、なんともいえない愛嬌がある。昔、西部劇で見たことがあるような、そばかすだらけの田舎娘だ。
「トゥー、エッグベーコンベネディクト&トゥー、カフィ、プリーズ」
女性店員は注文をオーダー表に書き込むと、はにかんだ笑顔を見せて厨房の奥へ消えた。
「殿下、アメリカの芋姉ちゃんですが、笑顔はイケてますね」
「トラ閣下、まさしく。笑顔は、どんな化粧よりも女を綺麗に飾るものだよ」
 釣り場へ出発するまで、まだ時間がある。という訳で、ふたたびアンカレッジを探索。同州最大の街といっても、ビルなどの高い建物は中心部に少しばかりある程度で都会的な印象は薄いが、ここには古き良き時代のアメリカらしい雰囲気と賑わいがある。
 車が行き交うメインストリートの脇道は露店が並んでいて、その先にレストラン、土産屋、コンビニエンスストア、楽器店、書店等、生活に必要な店が一通り揃っている。街角にはビアガーデンのような広場があり、カントリーバンドが懐かしい曲を奏でている。陽気なヤンキーの若者たちがビールジョッキを片手に、リズムに合わせて体を揺すっていた。
 普段から軽音楽を嗜む私にとって、アメリカの音楽は大好物。じっとしていられる筈もなく、現地の人の輪に加わり、立ち飲みと生演奏をじっくりと楽しんでから、かねてより訪ねたいと思っていたアラスカ鉄道の駅へ向かった。

 内陸のフェアバンクスへ向かって真っすぐに伸びる線路。地球に引かれた二本の鉄路は、人間の視力の限界を超えた先で大地に溶けている。果てしなく続く壮大な眺めだ。この列車に乗れば、地球の裏側まで行けるんじゃなかろうか。私は枕木に腰を降ろして眼を閉じ、総距離七五〇キロに及ぶその旅路を夢想した――。いつの日か、また此処を訪れて車窓の景色に浸ろう。

 アンカレッジの街の雰囲気を存分に味わった私たちは、釣りのライセンスを購入するため、郊外のフィッシングショップに立ち寄った。キングサーモンのライセンスは、日本円で八〇〇〇円ほど。夢を叶える代金とすれば安いものだ。

 これより、釣行のベースとなるロッジを目指す。目的地はアンカレッジの北東五〇〇マイル先にあるバルデスコルドバ国勢調査区のコッパーセンターだ。
 到着には、車でおよそ五時間を要するが、道中は想像とは異なり、拍子抜けするほど快適ドライブだった。行く道は悪路どころか、綺麗にアスファルト舗装されていて、開高氏の著書、『フィッシュ・オン』のキングサーモン村の行にあった「何処へ向かっても行き止まりばかりだった」という面影は何処にもない。これも時代の流れだろうか。

 途中、氷河を間近に拝める観光スポット『エッジ・ネーチャー・トレイル』で休憩。チュガッセ山脈から流れ出る四三キロにも及ぶ氷の壁は、圧巻の迫力がある。一万年以上も前からこの地に横たわる氷床は、降り積もった時間の結晶だ。蓄積された膨大な地球の営みが、解氷されるまで時を待っている。そこには高揚も沈鬱もなく、全てが静かで永い眠りについている。

 午後七時、予定より一時間ほど遅れてフィッシングロッジに到着。釣行のベースは、木の香りが心地よいログハウスだった。このロッジを切り盛りしているのは、オーナー夫人のルーアンと娘のリヴィエ。二人とも青い眼が涼しげなブロンド美人。白系ロシアの血を受け継ぐ母娘だ。
 挨拶を済ませ、用意された部屋に荷物を運び入れて旅装を解くと、リヴィエが呼びに来た。今夜は特別に到着祝いのディナーパーティを開くという。嬉しいサプライズだ。
 
 パーティの会場は、ロッジの外のガーデン。行ってみると、思いの外、人が集まっている。我々、撮影スタッフだけでなく他の宿泊客も参加しているようだ。
 メインディッシュは、アメリカンサイズの巨大なステーキかと思いきや、なんとキングサーモンの醤油漬け。現地の人は食べないらしいが、日本人のために用意された特別メニューだ。
 それにしても卵のサイズが半端じゃない。小さなビー玉くらいの大きさがある。恐るおそる、テイスティング。んー、味は悪くないのだが、脂っこい。イクラ丼のようにご飯の上に乗せて食したのだが、すぐに口が飽和状態に達してしまい、箸が進まない。やっぱり、我々にはシロザケが丁度いい。その後に出てきたステーキが、あっさりした食べ物のように感じたのは、私だけではないだろう。

 長旅の後に大量の肉とアラスカンフードを胃の腑に収めれば、当然、眠気が込み上げる。しかし、この後が本番。休む前に、現地のガイドを入れて明日から始まるロケの打ち合わせをせねば。
 私に握手を求めた茶色い顎鬚のバイキングが、メインガイドのデニー。身の丈一九〇センチの大男だ。しかし、その厳つい風貌に反して、話してみるとシャイで実直な青年だった。
 明日はゴムボートを川の上流へ運び、ラフティングしながら、道中のポイントを攻めていくのだという。釣り場となる河は氷河の雪代が流れていて、かなりの激流らしい。どちらも初めての体験なので、楽しみではあるが、不安も大きい。
「トラ閣下、いよいよ始まる」
「殿下、ここは一丁、やらかしますか」
「いいねぇ、目標を決めようか」
「握りますか?」
「それもいいねぇ」
 閣下と軽口を叩いているところに、番組のプロデューサーが口を開いた。
「神谷さん、この釣行では、五〇ポンド以上を目標にしてくださいね」
「え……。五〇ポンドって、それは、キツイんじゃない?」
「せっかく海外で番組を作るんだから、視聴者にキングの大きさを実感してもらわないとね」
 その面持ちは、マジだ。
「そうは言っても、簡単なサイズじゃないよねぇ」
なかなか首を縦に振らない私の横で、閣下がトドメを刺す。
「じゃ決まりですね、殿下。中を取って四五ポンドが目標」
「それで決まりね。達成したら、アンカレッジのレストランで好きな物をご馳走しますよ」と、プロデューサーが、話を結んだ。
 初アラスカ釣行で浮かれていた気分は、一気に吹き飛んだ。鉛のように重いプレッシャーが、ずっしりと肩にのしかかった。
〈こりゃ、前途多難だな……。どっちにしても、ここまで来たら、やるっきゃない〉
 期待と不安が双頭の蛇の如く、交互にかま首をもたげる夜。まんじりともせず朝を迎えた。

 そして訪れた釣行初日の朝。午前四時、打ち合わせ通り、ロッジの前にデニーの運転する四輪駆動が停まった。
 いよいよ本番、二時間後には夢にまで見たアラスカの河に立っている。現実になった憧れは、どんな物語を紡ぐのだろうか。
                其の二へ続く。

◆Photo graphic

000・アラスカの川を泳ぐ鮭の王様。これでも三五ポンドクラス。目標は四五ポンドだ。

 

001・荷物も、アラスカへの想いも、たくさん抱えて出国する。

 

002・アンカレッジへ向かう飛行機の中で隣り合わせたテッド。海兵隊の兵士だという彼も、キングとの出会いを求めるアングラーだった。

 

003・飛行機の窓から見た景色。眼下にあるのは、荒涼とした極北の大地。山も、川も、空気も、凍てついた眠りの中にある。

 

004・アンカレッジ空港に到着。これで午後十一時過ぎ。深夜とは思えない明るさだ。

 

005・白夜の街は夜更かしだった。土産物屋を探索。

 

006・繁華街を離れると賑わいは消え、寂し気なアラスカの横顔が顔を出す。

 

007・一夜明け、ホテルをチェックアウト。現地のレストランにイン。

 

008・ベーコンエッグベネディクトをオーダー。朝食の定番らしいが、意外とクセになる味だ。

 

009・アンカレッジの街にある低い建物に様々な店が入っている。

 

010・広場では昼間からビアガーデンがオープン。カントリーバンドの演奏もあって賑やかだ。

 

011・路地裏の楽器屋でギターを弾くと、地元の人とすぐに意気投合。音楽に国境はないね。

 

012・鉄の道が果てしなく続く。しばし閣下と、アラスカ鉄道の車窓を夢想する。

 

013・郊外の釣り具店、というより、何でもありのアウトドアショップというお店。巨大なキングサーモンの剥製に度肝を抜かれる。

 

014・アメリカなので銃が売られているのは当たり前だが、あまりにもお手軽に買える雰囲気。日本人には理解し難い感覚だ。ここでライセンスを購入。

 

015・この店でライセンスを購入。キングを釣る実感が湧いてきたゾ。

 

016・開高氏が見たアラスカも今は昔。釣行のベースへ向かう道程は、思いの外、快適だった。

 

017・氷河は膨大な時を経て流れる氷の川。白人の母子が、彼方の氷壁を静かに見つめていた。

 

018・フィッシングロッジのオーナー母娘。ロシア系の金髪美人だ。

 

019・ガイドのデニーと婚約者。二人はこの三週間後、結婚式を上げた。

 

020・釣り場となるのは氷河の雪代が流れる河。巨大な鮭が潜んでいる。

 

021・車で運んだゴムボートで川を移動。下りながらポイントを攻めていく。

 

022・自家用セスナ。結構、普通に見かける。こちらでは乗用車みたいなものか。

 

 

神谷悠山 北海道旭川市在住
物心がついた頃から渓流釣りを覚え、これまでに様々な釣りを嗜んだ。その経験を生かし、メディアで釣りの魅力を紹介している作家、構成作家。得意とするのは、内水面のトラウトフィッシング。自らを欲張りな川釣り師と称し、ルアー、フライ、エサを問わず、ノンジャンルで釣りを楽しんでいる。