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【第一三話 其の二 アメリカ合衆国四九番目の州で、巨大な鮭を釣る~病弱な少年の夢が成就した日~】

 COVID―19(新型コロナウィルス)の出現以来、世界は激変。グローバル化の波は押し戻され、検疫という名の高い壁が国境に生じて、海外の釣りは、今や夢物語と化した。このような非常時に、アラスカでの釣り体験を綴ってよいものだろうか、と考えたのが、休止していた理由である。
現在も変異したオミクロン株の感染は広がっているが、病理学の専門家が事前に予見していたとおり、憂慮すべき重症化率はかなり低下している。感染力を高めて弱毒化するのは、己がDNAをより拡散するための高等戦略。つまりウイルスは、生き残るために宿主と共存する道を選んだということだ。

 今後も注意は怠れないものの、出口が見えてきたのではないだろうか。我々も以前の生活を取り戻していかなければ、ウイルスに滅ぼされる前に、経済が死んでしまう。そうなれば、被害は甚大。現に今、景気は低調。この国に赤信号が灯っている。
 しかし、嘆くことはない。景気と病気に共通する言葉は『気』。そう、大事なのは、気の持ちよう。ドイツの詩人、ゲーテは、「財産を失っても、また作ればいい。だが、勇気を失えば、生きている価値を失くしてしまう」と云った。
 コロナ禍の三年間で、経済も人心も荒廃したが、前向きな気持ちがあれば、我々は先に進める。そろそろ、目覚めねば。
という訳で、私も脳内の巣篭りから脱却して、この釣行記を再開する。
    ※      ※      ※
 渋い音を立てる木戸を開けてロッジの外に出ると、コバルトブルーのスクリーンが掛かった景色の中で、ラフティングボートを積んだ四駆の車窓から男が手を振った。
 髭を蓄えた長身の白人、フィッシングガイドのデニーだ。車に乗り込むと、「Good morning Yusan.Did you have a good sleep? (おはよう、悠山。昨夜はよく眠れた?)」と訊くので、「Good morning .I didn`t sleep well. My eyes opened in the middle of the night(おはよう。夜中に眼が覚めて、よく眠れなかったよ)」と返した。
 
 釣行の相棒、トラ閣下は、昨夜、深酒したらしく顔が浮腫んで眼が小さくなっているが、朝からテンションが高い。誰にともなく、今日の釣行の決意を熱く語っている。意気込みが空回りしなければ、いいのだが……。

 釣行のベースとなるフィッシングロッジがあるのは、人口三百人にも満たないアラスカ東部の『カッパー・センター』という小さな町。周囲は、人跡未踏の広大な針葉樹の森林。北極圏の大自然を身近に感じる場所だ。
 とはいえ、そこは近代のアメリカ合衆国。作家の開高健氏が訪れた頃を思えば隔世の感がある。道路も舗装されていて、インフラ設備もしっかりと整っている。なので、此処に辺境の地という言葉は似合わない。
 しかし、街を離れ、釣り場となるクルーティーナ・リバーの上流へ向かう林道に向けてハンドルを切ると、それまでの景色が一変。少年の日に思い描いたアラスカが姿を見せ始める。赤土が剥き出しになった山道が延々と続き、鮭が遡上する青い川は、大蛇の如くくねりながら深い谷の底を流れ行く。周囲は、野生の匂いが漂う原生の森。グリズリーやムースといった危険な動物が、何処から現れても不思議ではない極北のサンクチュアリだ。ラフティングボートを降ろす場所は、この道を20キロ以上も走った先にある。

 道中は轍だらけの悪路で、私が助手席に乗る車もフロントガラスがヒビ割れ、ボディの歪んだポンコツ。とてもゲストを迎える車とは思えない。まあ、それもアメリカらしい大らかさと思えなくもないが、ともかく、乗り心地は最悪。
 サスペンションがイカレているのか、突き上げるような衝撃が腰を襲い、私とトラ閣下の口から、絶えず苦悶の声が漏れる。だが、文句は言うまい。この刺激は、浮ついていた私を現実に引き戻すカンフル剤と考えよう。お上りさんでは、鮭の王様に敵う筈もなし。此処はアラスカで、私はキングサーモンを釣るために、遥々、海を渡って来たのだから。

 林道と川岸が接する場所で、車が停まった。腕時計に眼を落すと、針は午前六時を指していた。ロッジを後にしてから、およそ五〇分が経過している。
 ここが釣りのスタートラインか。暁に染まっていた空の端が、アラスカンブルーの色を濃くしていた。
「殿下、冷え込んでますねぇ。いやぁ想像していたより、ずっと寒い。もっと厚着してくればよかった」トラ閣下が、肩を竦めてそう言った。
「ああ、閣下。こりゃ、眠気も一気に吹っ飛ぶ。だが、この寒さは、キングの棲家に辿り着いた証でもあるさ」

 私が訪れたのは、八月初旬。アラスカは夏の終わりだが、朝夕は吐く息が白むほど冷え込む。この日は、日本の寒冷地である北海道に暮らす私でも、耐えがたいほど寒かった。
 我々が極北の地の洗礼に戸惑っている間に、ガイドたちはラフティングボートを川に降ろす作業を始めている。
 寒さに怯んでいる場合ではない。タックルを再確認して、出撃の準備を整えねば。このボートにはエンジンがないので、一旦、川を下り始めれば途中で引き返せない。ピックアップ地点は二キロ以上先なので、足りない物があっても、為すすべがないのだ。万全を期さねば。

「Are you ready?(用意は出来たか?)」デニーが私たちに声をかけた。出発の準備が整ったようだ。
「It`s perfect.(完璧さ)」と、返すと、笑顔を見せて手招きをきした。
 デニー以外のガイドたちとは、ここでお別れ。彼らは車で来た道を引き返し、下流のピックアップ地点で我々の到着を待つ。
 これから激流を下りながらポイントを攻めていくのだが、移動する乗り物は、エンジンも舵もない小さなラフティングボート。想像すると、足元から不安がせり上がって来る。それは、同乗するトラ閣下も同じらしい。
「殿下、何やら心もとないっすね」眉根を寄せて私の顔を覗き込む。
「まあ、閣下、彼らはベテランの船乗り。処女航海ではないので、大丈夫だろう。デニーの腕を信じるしかないな」
 とは言うものの、正直、私も不安が拭えない。デニーの操舵技術を疑っていているわけでも、ボートの性能が不満ということでもなく、この川が放つ途方もない威圧感に恐怖を抱いているのだ。太古に滅んだ恐竜の嘶きの如く、鼓膜を震わせる轟音と共に流れ行く氷河の雪代。その圧倒的な迫力は、これまで見てきた川とは比べようもない。我々の常識では釣りをするどころか避難レベルの流れだが、デニーは涼しい顔で、早くボートに乗り込めと我々を促す。
 早くも非日常が、増幅している。この分だと、これから先は驚きの連続だろう。臆している場合ではない。事ここに至っては、まな板の鯉。割り切って、スリルを楽しみますか。
 
 という次第で、激流下りに腰が引けていた我々だが、慣れとは恐ろしいもので、気づくと恐怖は何処へやら、いつの間にか眼の前に広がる景色に魅入られていた。大陸性亜寒帯気候の自然美。河畔に茂る針葉樹は、枝を横に広げず真っ直ぐ天に向かって伸びている。深く根を張れない永久凍土に適応し、安定感を保つ姿に進化したトウヒの仲間が繁茂する森『タイガ』と大地が織りなす、壮大な眺め。
 どこまでも続く濃緑の絨毯の隙間を彩る赤い帯は、川の浸食で崩れた山肌。なだらかな山々が描く稜線の向こうに、万年雪を蓄えた白い高山『マウントドラム』の気高き尾根が覗く。人智が及ばない森厳な世界の沈黙を破るのは、ターコイズの輝きを放つ氷河の川。清潔な世界に散りばめられた彩りを、アラスカンブルーの爽空が静かに見守る。本来の姿を保った総天然色の自然は、心の奥底にある生き物としての本能を呼び覚ます。

「殿下、完璧っすね。まったく、アラスカって所は綺麗すぎます」
「まったくだ、閣下。これこそが、アート。自然が創りたもうた芸術だ」
 そこから先、二人は沈黙してしまう。地球の美に屈服。無理に言葉を発すれば、陳腐の泥濘にはまるだけ。心眼を開き、あるがまま受け入れるべし。

 川を下り始めて一五分ほどで、ファーストポイントに到着。浅瀬に寄せたボートを三人がかりで岸辺に係留した。釣り場に降り立った私の胸が早鐘を打つ。もうすぐ、夢が現実に変わる。
 さっそく、デニーから釣りのレクチャー。「遡上途中のキングサーモンは流れの緩む場所に立ち寄り躰を休める。そこを重点的に攻めるように。キングは積極的にルアーをくわえる魚ではないので、スローリトリーブが有効だ」。事前に調べ上げた情報と相違ない。大丈夫だ。この釣りの対策は、十分に練ってある。

 いよいよ、アラスカの水辺にルアーを投じる時がやって来た。
私の武器は、渡米する際、FOREST社に作って頂いた『リアライズ・キング・プロトタイプ24g』。特製のスプーンにセットするのは、OWNER社カルティバのSJ43TNの5/0。強靭で貫通力の高いフックだ。これなら少ないバイトをモノにして、確実に取り込める。
 
 万全の布陣だが、それでも鮭の王様をルアーで釣るのは簡単ではない。意外かもしれないが、現地でキングサーモンを狙うアングラーの六割は餌釣り、三割がフライフィッシングで、ルアーフィッシングは一割程度しかいない。
 実はこの魚も日本の鮭と同じく、川に遡上した個体は餌を取らないので、ルアーへの反応が薄い。合理主義者が多い米国では、確率が極端に低いメソッドは敬遠される。彼らにとってキングサーモンがターゲットの釣りは、大物とのファイトを味わうもの。如何にして掛けるかは、さして重要な問題ではないのだ。ここが、我が国の価値観と大きく異なるところだ。
 だが、不利は承知の上での挑戦。この魚の存在を知ったきっかけは、開高健氏の著書『フィッシュ・オン』のルアーフィッシングなので、スプーンで釣ることに意義がある。という訳で、餌釣りを勧めるガイドの忠告を受け流し、初日の今日はルアーフィッシングに終始する。
 
 私が立っているのは、分流の間にある中洲。砂が堆積している場所なので、水に入ると流砂に足がすくわれる。立ち込むには、注意が必要だ。
ここでの狙い目は分流がふたたび交わる場所。速度の異なる流れがぶつかり、帯状の淀みができている。キングサーモンは遡上の途中、流れが緩む場所で身体を休めながら上流を目指すので、こうした場所は恰好のポイントだ。
 
 憧れの魚と対面を果たすべく、ターコイズブルーの流れにルアーを投じた。着水したのは、私の立っている場所から対岸。分流が交わってできた反転流の渦の少し上だ。ルアーが底を打つのを待って、ゆっくりとリールのハンドルを回すと、川底を這うスプーンの振動がティップに伝わってくる。ここまでは良かったのだが、リトリーブしていると、狙いのポイントをすぐにすり抜けてしまう。これでは、キングにルアーをアピールできない。

(思っていたより、流れの圧しが強い。これじゃ、スプーンがポイントに留まらないな)
何度かキャストを続けても結果は同じ。

(さて、どうする。ここは比重の大きなルアーを流して様子をみるか)

 肉厚のスプーンに替えて、ふたたびキャスト開始。水面に刺さったラインがポイントに差し掛かったところでリトリーブを止めると、テンションを保ったまま、ゆっくりと流れていく。しかし、ティップの動きにルアーが着いていかない。これでは、鉄くずを転がしているのと同じ。アピールできなければ、バイトは望めまい。
手をかえ品を替え、一時間ほど粘ったが、反応は皆無。デニーの進言もあり、次のポイントへ移動した。

 やって来たのは、激流の脇にあるワンドのような場所。巨大ではないが、鮭らしき魚のもじりも確認できる。最初のスプーンに戻し、川下からルアーを投じてポイントを抜ける手前で軽くティップを煽ると、ひったくられるような感覚を覚えた。反射的にロッドを立てると、重量感のある魚の感触が肘に伝わった。

「フィッシュ、オン! 閣下、きたよ」

 初バイトに興奮して、思わず叫んだ私だが、獲物の抵抗は想像してきたほど激しくない。この程度なら、日本で釣る鮭と大差ない。ジャック(小さいキング)なのだろうか。
 程なくして、六〇センチほどの薄紅色の魚体が水面に浮かんだ。デニーが、その魚を指して「ソッカイ、ソッカイ」と、声を上げた。獲物の正体は、レッドサーモン(和名、紅鮭)。成熟して婚姻色の出た個体は魚体が深紅に染まるが、この魚は遡上してまだ間もないのか、淡いピンク色。奥ゆかしい未通女(おぼこ)だ。
 この鮭にキープの制限はないが、ここまで来て産卵せずに死ぬのは悔しかろう。この娘は、川に戻って頂くか。

 リリースしようとした私を、デニーが制した。何事かと尋ねれば、要らないならこの魚を自分に譲って欲しいという。後で知ったのだが、脂の乗りが良いレッドサーモンは、食用魚として現地で人気が高い。その上、遡上数も多く、資源の枯渇を心配する必要がないので、ガイドたちは、この魚が釣れると嬉々として持ち帰るのだ。

 初物が釣れて、展開が上向くかと思ったのだが、期待は空回り。その後は、バイトどころかチェイスもない。思いつくあらゆる手立てを講じても、川は沈黙を保ち続けた。日が悪かったのか、腕が及ばなかったのか、はたまたツキに見放されたのか。閣下も私も、キングの顔を拝めないままピックアップ地点に到達。記念すべき初日の釣りは、アラスカの川の洗礼を受けて幕を閉じた。

其の三へ続く。

 

◆写真データ

000・コッパーセンターにあるウィルダネスリバーロッジ。バーやレストラン、土産物屋もある複合宿泊施設。

 

001・枝を横に広げないトウヒと氷河のしずくを集めた川は、寒冷な大地の象徴。

 

002・釣行初日の朝、木戸を開けてロッジの外に出た。

 

003・ラフティングボートを牽引するガイドの車が待機中。

 

004・フロントガラスがヒビ割れたデニーの車に乗り込み、釣り場へ向かう。

 

005・ラフティングボートを川に下して、出発の準備を整える。

 

006・これより、船出。川を下りながらポイントを攻めていく。

 

007・氷河の雪代は、圧倒的な威圧感。恐怖に満ちた川下りだ。

 

008・怖がっていたのは、最初だけ。気づけば、激流クルーズを楽しんでいた。

 

009・アラスカの川でファーストキャスト。夢が現実に変わった。

 

010・アメリカの国鳥、ハクトウワシが、釣りを見守っている。

 

011・記念すべきファーストフィッシュは、現地でソッカイと呼ぶレッドサーモン。

 

012・ソッカイ(レッドサーモン・サケ目サケ科の魚。和名、紅鮭)現地でも人気の食用魚だ。

 

013・ソッカイを狙う釣り人。この年は遡上数も多く、キープの制限はない。

 

014・ガイドのキャンプ。ここは、サーモンハントの前線基地だ。

 

015・川を後にした私は、キャンプでガイドと反省会。

 

016・クルーティーナ・リバーのキングと対面ならず。初日が終わった。

 

 

神谷悠山 北海道旭川市在住
物心がついた頃から渓流釣りを覚え、これまでに様々な釣りを嗜んだ。その経験を生かし、メディアで釣りの魅力を紹介している作家、構成作家。得意とするのは、内水面のトラウトフィッシング。自らを欲張りな川釣り師と称し、ルアー、フライ、エサを問わず、ノンジャンルで釣りを楽しんでいる。