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【第二話 瞼裏に焼き付いた異国のイワナ 其の二】

煩悩の塊である釣り師がフィールドで眠りに落ちるのは、そう簡単な事ではない。ましてや目の前に横たわる湖は、憧れの魚が棲息する水辺。脳の奥底から止めどなく湧き出す妄想が、頭を破裂せんばかりに占拠している。
リクライニングを限界まで倒した車の助手席で横たわる私は、瞼裏(まなうら)で大魚が跳ねるたびに溜息を吐き出し、道中の商店で仕入れたウィスキーの小瓶を口にして琥珀の液体を胃の腑に流し込む。
芋虫の如く悶えているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 
「もう湖畔に人が陣取っていますよ」現地で合流したI氏の釣友が、ウィンドガラスを小突いた。
その音で目覚めた私とI氏。慌てて身体を起こしたが、空はまだ真っ暗で辺りは闇に包まれている。訝し気な面持ちで腕時計に眼を落すと、午前四時を過ぎたばかり。暗いのは当たり前だ。夜明けは、まだ先なのだから。

「かなり早い時間から、釣り人が岸辺に集まってきて待機していますよ」
I氏の釣友が早口で告げると、I氏が寝ぼけ眼をこすりながら「そんなに早いの。いやぁ、まいったね」と応えて、私に支度を促した。

急いで準備を済ませて湖岸に降りて行く。かなり気温が低いようで、吐く息が白くなる。この年は寒さが厳しく、湖の周囲にも残雪が目立っていた。日が差していないこの時点では、おそらく零下だったと思われる。
とまあ、こんな次第で、解禁までの時間を震えながら待つことになった――。

破裂音が大気を震わせて湖上に閃光が走った。次の瞬間、左右からロッドの風切り音が一斉に鳴り響き、私の鼓膜を揺らした。

釣りの開始を伝える合図の花火だった。この音が聞こえてくると身体が震えると云ったI氏の言葉どおり、実際、花火が上がったとたんに湖岸を陣取るアングラーが色めきたち、一斉にキャスティングを開始する様は熱くて壮観だ。日の出前の空を映すコバルト色の湖面に次々と落ちるルアーが立てる波紋は、情熱の幾何学模様とでも云おうか。意図せぬ美しさに釣り心が揺さぶられる。

勢いに押されて遅れを取っていた私も参戦。キャスティングを開始した。
この時期のレイクトラウトは湖底に潜むと聞いていたので、チョイスしたのは十八グラムの肉厚スプーン。それに合わせてフックは耐久性の強いシングルをセットした。キャストした後は、着底させてからロッドコントロールでジャークとフォールを織り交ぜながらスローリトリーブだ。一投ごとに興奮の濃度が高まっていく。

結果は意外に早く出た。釣りを始めてから三〇分くらい経過して、コバルト色の空が彩りを増していた時間帯。
突然、重いアタリがあった。何かがロッドに圧しかかったような、どっしりとした感触。アワセを入れると、ティップが生き物の躍動に震えた。
「ヒット! 来たよっ」叫ぶと同時にアドレナリンの伝令で全身が活性化、戦闘態勢は整った。

はたして獲物はレイクなのか。ドラグを鳴らして水底へ引き込むパワーはなかなかのもの。これまでに経験した魚の引きに例えるなら、イトウやアメマスに近いトルク系のファイトだ。
私のヒットを知り、釣りを中断したI氏が背後で見守っている。
〈バラすわけにはいかない。ラインは八ポンド、無理をしなければ問題ない。落ち着け〉
――慎重なやり取りが続いた数分後。
水面に白斑が散りばめられた橙色の肌の魚が躍った。紛れもなくレイクトラウトだ。コンディション抜群の鱒が持つ完璧なフォルムに、思わず見とれてしまう。
〈おっと、ここが肝心。最後の詰めが残っている〉
我に返って、ネットイン。ついに念願の魚を手にした。

「やりましたね。おめでとうございます」ロッドを置いてI氏とがっちり握手。
この湖には灰色と褐色のタイプのレイクが居ると聞いていたが、この魚は後者。オレンジ色の体側にバランスよく斑点が散りばめられた美魚。体格も良く見栄えがする。メジャーを充てると六四センチあった。
我が国に根付いた遠来の鱒を丁重にもてなした後、ツーショット写真を撮ってふたたび湖に放つ。あっけなく成就したからだろうか。リリース後に喜びが込み上げてきた。これぞ、まさしく感無量。

後日談になるが、この年の解禁初日は水温が二℃しかなく、かなり不漁だったらしい。にもかかわらず開始早々のヒットとは。トラウトの聖地に住まう女神が、私の元に舞い降りてくれたのか。苦戦を覚悟の釣行で、嬉しい誤算だった。

初日の釣りを終え、湖岸の民宿でI氏と祝杯を上げながら明日の作戦を練る。疲れと達成感が相まって、飲むほどに心地よく酔いが私を包んでいく。
「神谷さん、いい魚でしたね。明日は俺も続きます。もっと楽しみましょう」とI氏。
「いきなり、あんなサイズが釣れるとは。いやぁ、ホント、ラッキーでした」
手垢のついた話だが、私も例にも漏れず、獲物を例えて広げる手がどんどん広がっていく。
この日、釣果に恵まれなかったI氏はそろそろウンザリしてきたようで「明日も早いので、もう寝ましょう」と、布団を敷き始めた。
自慢する相手が居なくなった釣り天狗は、急激に酔いが回り部屋の電気を消した――。
 
そして迎えた翌早朝。解禁日に初レイクトラウトを手にした私の次なる目標はサイズアップ。二日目は、ボートに乗って陸路からアプローチが困難な対岸へ渡る。
午前五時に宿を後にした私とI氏は、渡船のボートに揺られていた。
「これから行く場所は、どんな感じなのかな?」いつもより大きな声でI氏に訊ねる。ボートのエンジン音が言葉を遮(さえぎ)ろうとするので、どうしても声のボリュームが上がってしまう。
「車で行けないことはないんでけど、降りてからが大変なので人が少ないです。だから、じっくりと攻められますよ」I氏も声がデカい。
「それなら、焦らずに楽しめそうですね。今日は大物が目標ですから」
私の言葉に、I氏はゆっくりと頷いた――。

到着した釣り場は、小砂利(こじゃり)を敷き詰めたような湖岸で遠浅のポイントだった。I氏の狙いどおり、私たちの他に釣り人はいない。ボートが引き返した後、すべての音が湖に吸い込まれ、辺りは静寂に包まれた。
青色を増した朝の空の端に暁(あかつき)の朱が残る午前六時。私とI氏は三〇メートルほど距離を取ってランガンすることにした。向こう岸の喧騒を忘れさせる穏やかな湖面に向けてルアーを放つ。
キャストしながら二〇メートルほど歩いた場所で最初のヒット。ドン!と鈍いアタリがあってティップが弧を描いた。水底へ向かう魚をなだめすかしながら寄せてくる。足元で飛沫(しぶき)をあげながら、二度三度、もんどり打って無事ネットに収まった。
〈レイクだ。大きくはないが綺麗な魚だ〉サイズは五〇センチ程度だが、暁を身に纏ったようなオレンジ色の鮮やかな魚体。総天然色の媚態をしっかりと眼に焼き付け、リリース。幸先良くファーストフィッシュを拝んだとあらば、次はサイズアップだ。
 ほどなくしてI氏も同サイズのレイクを釣り上げた。
〈今日は活性が高いのかも。これなら大物も期待できるか〉と、ほくそえんだのも束の間、その後はパタリとアタリが止まり、キャスティング練習のような時間が続く。獲らぬ狸の皮算用とは、このことか。
――そして太陽は頭上に。こうなれば活性は望むべくもない。
〈もう、昼か。このピーカンなら厳しいだろう。潮時かな……。いや、まだまだ〉萎える気持ちを鼓舞しながら、初日に大型のレイクを仕留めた十八グラムのスプーンに替えて、試合続行――。
だが、その後も反応はなく青空と澄んだ湖に魂が抜かれていく。
諦めかけたその時だった。着水と同時に衝撃がロッドを襲った。
「ヒット! 来たよっ」右に左にティップを曲げる元気者だ。ラインスラグを作らないようにテンションを掛けたその時、獲物が水面から飛び出した。
 華麗なる獲物はスローモーションのように時空を捻じ曲げ、ゆっくりと全貌を私に見せつけた。
「レインボートラウトだ」掛かっていたのは、この湖に生息する別な外来鱒『ニジマス』、レイクではなかった。
この獲物を最後に湖は沈黙した。サイズアップこそ成らなかったが、目標は達成した。
今、私の心は心地よい解放感に満たされている。だが、この満足は、そう長くは続かないだろう。夢の成就は、新たなる夢の始まり。次はネイティブのレイクトラウトが釣りたい。そう、釣り師は強欲なのだ。

 写真データ

001・解禁日の釣りが間もなく始まる。刻一刻と積み重なる高揚。


002・釣りスタート。この後、すぐに釣り神様が微笑むとは、知らずにキャスティング。


003・残雪が残る湖岸に釣り人が居並ぶ。厳しい解禁日だった。


004・ファーストレイクをゲット。初めて見る遠来の鱒に感動。


005・64cmのレイクトラウト。初にして二尺越えの幸運。


006・美しく逞しい魚体を堪能して、ふたたび湖に放つ。感無量の時。


007・渡船を担うレーク・オカジン。二日目は、ここから始まった。


008・二日目のレイクは、鮮やかな色を纏った美魚。思わず見惚れる。


009・素晴らしいファイトを見せた45cmのレインボートラウト。


010・コンディション抜群の湖棲タイプの銀毛ニジマスだ。

 

神谷悠山 北海道旭川市在住
物心がついた頃から渓流釣りを覚え、これまでに様々な釣りを嗜んだ。その経験を生かし、メディアで釣りの魅力を紹介している作家、構成作家。得意とするのは、内水面のトラウトフィッシング。自らを欲張りな川釣り師と称し、ルアー、フライ、エサを問わず、ノンジャンルで釣りを楽しんでいる。