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【第二話 瞼裏に焼き付いた異国のイワナ 其の一】

【第二話 瞼裏に焼き付いた異国のイワナ 其の一】

北アメリカの北部を主な生息地とする巨大な魚がいる。サケ科サケ目イワナ属、レイクトラウト。
我が国のイワナ同様、体側に白斑を抱く秀麗な魚でありながら、獰猛(どうもう)なフィッシュイーター。両者の違いは、そのサイズ。日本のイワナは二尺を越えれば超大物の部類に入るが、レイクトラウトは、過去に四六・三キログラムの化け物が捕獲されたこともある規格外の大魚なのだ。

私がこの魚に興味を持ったのは、少年の頃。今は亡き小説家、開高健氏の著作を手にしてからなので、もう三十数年も前になるだろうか。以来、異国のイワナは私の瞼裏(まなうら)に棲み付き、歳を重ねるごとに成長していった。
とはいえ、レイクトラウトが棲息するのは、日本から遠く離れた北米の水辺。学生の身分で簡単に行ける場所ではない。ましてや社会人となった当初は、商社勤務ということもあり、仕事に、家事に、忙殺されて余暇を楽しむ余裕などなく、普段の釣りすらままならない日々が続いた――。
      *      *      *
意外な形で夢が叶ったのは、齢五〇を超えた春だった。北海道がまだ冬の寒さに震えていた三月の上旬。
その頃、既に私は商社を退職し、物書きを生業(なりわい)としていた。
仕事の打ち合わせで東京に滞在中、同席していたI氏から「中禅寺湖の解禁でレイクトラウトを釣ってみませんか――」と、お誘いを受けた。
「え、レイクですか?」
その時、過去に読んだ釣り雑誌に掲載されていた中禅寺湖の紹介記事が脳裏を掠めた。思い出した。そう、レイクトラウトは日本でも釣れるのだ。

時は一九六六年に遡る。増養殖研究所日光庁舎、当時の水産庁淡水水産研究所日光支庁がカナダのオペオンゴ湖からレイクトラウトを導入し、中禅寺湖へ放流した。以来、同湖のレイクトラウトは累代繁殖を繰り返し、その遺伝子を今に伝えている。

想いは、未だ見ぬ大魚の元へ馳せていた――。

「神谷さん、どうかしました?」
I氏の声が、白日夢から私を引き戻した。
「え……。あ、いや、いや。そりゃ、釣りたいですよ」
「でしょ、神谷さんが釣ってみたいという話を小耳にはさんだもので。話は決まった。自分の地元なので遠慮はいりません。後ほど電話しますから、楽しみにしていてください」
「はい! わくわくしますね。今から待ち遠しいです」
翌日、東京からの帰路で、私は何度も中善寺湖の岸辺に立ち、大魚にドラグを鳴らされた。それは云うまでもなく脳内のフィールドであるが。

そして三週間後、旭川空港から羽田行の飛行機に乗った。最終目的地は栃木県日光市の中禅寺湖だ。

中禅寺湖は、今から約二万年前の男体山の噴火で湯川が堰き止められて出来た、いわば自然のダム。湖内にはニッコウイワナ、ホンマス、ヒメマス、ブルックトラウト、ニジマス、ブラウントラウト、レイクトラウトなど、多様な鱒類が生息しているが、元々、中禅寺湖に魚は棲んでいなかったという。それが現在のようなトラウト天国になったのは、明治十一年から当地で始まった外来鱒の養殖が起因している。この豊かな生態系は移入の成果だ。外来魚には賛否両論あると思うが、ここは釣り人として、先人たちの努力に感謝を捧げたい。
我が国における外来鱒移入の先駆けとなったこともあり、同湖は鱒釣りの聖地と呼ばれている。
つまりこの湖で釣りをすることは、トラウトアングラーにとって巡礼に等しいという行為でもある。私にとっても、この釣行は少年時代から憧れていた魚に逢うための巡礼の旅だ。

北の大地から聖地への道程は、旭川から羽田空港まで空路。次はモノレールと電車を乗り継ぎ東京駅を目指す。そこから宇都宮に向かい、駅でI氏と合流。その後はI氏の車に乗って中禅寺湖を目指す。
宇都宮の駅で名物の餃子をビールで胃の腑に流し込んだところで、スマホの着信音が鳴った。I氏が駅に到着したようだ。これより鱒釣りの聖地へ乗り込む――。

中禅寺湖のある日光は有数の観光地でもある。釣りは明日からなので、道草をすることにした。まずは徳川家康を東照大権現として祀る『日光東照宮』。神厩舎に「見ざる言わざる聞かざる」の三猿の浮彫があることで知られる神社だ。境内を歩き、荘厳(そうごん)華美(かび)な彫刻を眼にすると、家康の威光を永遠に留め、徳川の権威を揺るぎなきものにしようとした三代将軍家光の執念が随所に見てとれる。
なかでも極彩色の彫刻で覆われた陽明門は圧巻の一言に尽きる。質素倹約を美徳とした徳川幕府にあってもここは特別だったようだ。復元作業が進められていた最中ではあるが、往時の姿を取り戻した彫刻に至っては豪華(ごうか)絢爛(けんらん)。眼にも眩しい美しさだ。
次に立ち寄ったのは歴史ある旧日光養魚場跡地にある『さかなと森の観察園』。敷地内の池にはイトウなどの稀少な鱒類からチョウザメまで飼育。もちろん、この施設にはレイクトラウトもいる。憧れの魚と初めての対面を果たした私は実物の迫力に感動し、挑戦への決意を新たにした。

最後に足を運んだのは、華厳の滝。その昔、第一高等学校の生徒が、「人生不可解なり」という辞世の言葉を残して身を投じた名瀑だ。時期にもよるのだろうが、滝を見学していた観光客の七割が外国人だった。滝の周りで賑やかにはしゃぐ異国のカップルから、厭世の嘆きは一片も見当たらない。人生を憂いた学生は、時代の流れをどう見ているのだろうか。

華厳の滝から流れでた水には鱒が棲む。日本一有名な瀑布の滴は、かのトーマスグラバーが鱒を放して釣りに興じた湯川となるのだ。この川は、現在でも美麗な外来鱒ブルックトラウトが棲む水辺として釣り人に人気の高いフィールドだ。残念ながら今はまだ解禁前。訪れるアングラーはなく、流れの傍らにサワガニ目当ての野猿が一頭いるのみだった。
物見遊山は、これにて終了。今夜は中禅寺湖の畔で一夜を過ごし、解禁を待つ。

私はI氏と共に車中で仮眠を取っている。フロントガラスに映る天蓋(てんがい)には星が瞬いている。このぶんだと、明日の解禁は天気に恵まれそうだ。
                           
次回に続く

      *      *      *

001・中禅寺湖。我が国ではこの湖にのみ、レイクトラウトが棲息している。

002・関東の山上湖に積年の想いを放つ。

003・湖の食物連鎖の頂点に立つ、外来のイワナ、レイクトラウト。私が逢いたかった魚だ。

004・中禅寺湖へ至る道中、いろは坂の眺め。

005・道草、その一。日光東照宮の三猿の浮き彫。「見ざる言わざる聞かざる」が出来れば、私も安穏と暮らせるのだろうか。

006~007・道草、その二。旧日光養魚場。ここから養鱒の歴史が始まった。

008・道草、その三。華厳の滝を飲み込んで、霊験にあやかろう(笑)。

009・釣り券を求めた店にあったレイクトラウトの記事と写真。圧倒的な迫力だ。

 

神谷悠山 北海道旭川市在住
物心がついた頃から渓流釣りを覚え、これまでに様々な釣りを嗜んだ。その経験を生かし、メディアで釣りの魅力を紹介している作家、構成作家。得意とするのは、内水面のトラウトフィッシング。自らを欲張りな川釣り師と称し、ルアー、フライ、エサを問わず、ノンジャンルで釣りを楽しんでいる。